種子島二人旅
ずっと一人でロケットを見ることになるだろうと、そう思っていた。
我々人類は様々なものに興味をもつ。日常の些細な出来事から噂のゲーム、スポーツ、音楽に絵画……。興味や関心はいつでもどんな方向にでも向けることができる。しかし、その中でもわざわざロケットの方へ向けている人間は少数派だ。
「ロケット見学が趣味です!」
「へー、すごいね。がんばって」
一生懸命、ロケットの方を向くように電波を照射することもあるのだが、あまりにも他の趣味との勢力差が大きすぎて効果がでない。そもそも共有するのが難しい。万が一、さあ見学しようという気になっても、都合よく近日中に打ち上がりますなんてことが無いし、そもそも打ち上げ予定日にちゃんと打ち上がるかも分からない。
種子島に行くエネルギーも必要だ。
お金、時間、体力といったものを相当燃焼しなければ種子島への往復はできない。全然お手軽じゃないのが難点だ。だから貴重なエネルギーを消費してロケットの打ち上げを何度も見に行くロケットマニアは、見に行ったことのない人からは理解されない。まさにロケットバカとしか見えない。
当然の結果なのか、自分にはほぼ友人がいない。年賀状も一通だ。しょうがないのでロケット見学に行く時にはカメラを連れて行った。写真を見せる分にはたいして迷惑がられないから。
一通だけ来る年賀状。これは付き合っている彼女からのものだ。彼女というのは別に空から突然降ってきたわけじゃないし、都合のいい妄想で作られたものでもない。
一昨年の冬山。小さな天文台の側で自分たちは冬の透き通った星空を眺めていた。二人で選んだ新品の双眼鏡を覗き込んでいる彼女に、自分はこれからも一緒に色んなものを見ていきたいということを話していた。暗闇で彼女の表情はよく分からなかったが、その時、彼女の口から出た言葉がこれである。
「叶わなくてもいい約束をしよう」
そう前置きしてから、一息ついて、はっきりと言った。
「いつか一緒にロケットの打ち上げを見よう」
あの時、彼女が何を考えていたのかは分からない。
確かにロケットについて自分はよく話していたが、彼女はそれには何も興味を示さなかったはずだ。でも、自分はその言葉だけで嬉しくて、どうしてそんな気になったのか聞こうとしなかったのだ。
その時、自分も確かに答えた。
「分かった。きっと種子島まで連れて行く」
それから一年と半年が経った頃。その間もロケットは打ち上がっていたが、主に彼女の都合が悪く約束は果たされていない。日課である宇宙関連サイトの巡回をしていると、JAXAのサイトで、注目していたロケットの情報が発表されていた。
日本最大のロケットであるH2B。その打ち上げ予定日が出ていた。八月の丁度お盆の時期と重なっている。そして夜の打ち上げ。
以前種子島で地元の人と話をしていたら、こんなことを言われた。
「昼間の打ち上げよりも、夜は感動する。もしも見られるのなら、絶対に見た方がいい」
あの時は打ち上げ延期のため取っておいた休みが足りなくなり、このまま帰るか、仕事の休みを一日増やして打ち上げを見るかで迷っていた。結局、この言葉に後押しされるように休みを貰い打ち上げを見た。そしてあの言葉の意味を理解したのだ。
机の上の携帯電話を手に取った。
彼女にもあの光景を見せたい。
番号を押し、呼び出すとすぐに出た。要件を伝え、答えを待つ。彼女は今度こそ来てくれるだろうか。
しばらく返答が無かったが、やけに明るい声でこう言ってきた。
「いいよ。ただし」
意地悪な目つきでにやりとしていたに違いない。
「五キロやせろ。でないと種子島で口きかない。」
「……はい?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「太り過ぎ。健康に悪い。糖尿病でメタボでそのうち血管詰まって死ぬ。いいから黙って運動しろ!」
解釈すると、自分の腹部に脂肪という燃料を積みこみ過ぎているのが気になるから、もっと減らせということだ。
なんでこんな話になってしまうのか……。
確かに以前から彼女には運動しろと言われていたが、正直ほとんど右から左へと聞き流していた。しかし先程の言い方は本気だ。今回も聞き流せば本当に一言も口を利かないつもりだろう。
こうなったら仕方がない。自分の健康のためでもあるし、素直に言うことに応じることにした。
言われたその日から始めたダイエット。せめて名前だけでも格好良く「ロケットダイエット」と命名した。
「ハッハッホー。ハッハッホー」
リズムよく呼吸をすると楽になるということに気付いたのはいつからだろう。
「ハッハッホー。ハアッハアッ。ハッハッホー」
今日はそろそろ一時間になる。どこまで走れるのだろう。どこまで減らせるのだろう。夏の夕方の生ぬるい風。都会の清潔とはいえない空気。
そう、この長距離走は己の限界に挑戦することに変わりはないが、楽しいとか清々しいとかいう、どこかの達人の感想とは違って単なる苦行としか思えない行為である。まず暑い。はたから見た今の自分は顔を真っ赤にしながらバタバタと靴音をたてゼエゼエあえぐダイエット中のおっさんである。確かにダイエットには違いないが。
家に帰ったら彼女からのメールが来ていた。「へんたーい!」というタイトルで。苦笑しながら開けてみると憤慨する彼女の言葉が踊っていた。
いや、説明するとこういうことだ。種子島に行く方法は三つある。飛行機、高速船、フェリー。自分達が今回使うのは一日一本しかない格安のフェリー「はいびすかす」である。
しかし出港が夕方のため、船が出るまで時間を潰さなければいけない。何か良い場所がないかと探したら近くにプール以外何もない。だからそこでどうかと誘ったらこの反応だ。予想はしていたけれど。
しばらく彼女と会っていなかったが、こうやって連絡はよく取り合っていた。近づく出発の日を前に、こういうスケジュールで行動するのはどう? とか聞いてみたり、今みたいなくだらないメールを送ったり。でも反応を見ていて向こうも楽しみにしているのだということがじんわりと感じられる。なんとなく彼女の子供っぽい反応が微笑ましくなった瞬間である。
メールを見たあと、旅行の荷物が詰まったリュックサックと肩掛けバックを玄関に持っていった。今までの荷物の中では一番軽い。以前は当たり前のように野宿用のテントを担ぎ、冬にはかさばる防寒着を何着も用意していたが、回を重ねるごとにだんだん荷物も減り、車の免許を持つ彼女と一緒に行く今回はそんな物もいらなくなった。
でも持っていこうか悩んだ物もある。カメラと三脚だ。ロケットの打ち上げを写真に撮るのは難しい。しっかりとした機材と望遠のきくレンズを持っていなければ三キロ以上先にあるロケットの本体を写すのは至難の業だ。バズーカみたいな巨大なレンズを持ち運ぶ人も中にはいるが、今回はきっぱりそれらを置いていくことにした。
自分はロケットの打ち上げを他の人に見せるために撮るのだ。今回はそれが、カメラが無くても出来る。それも本物を見せられる。持っていく理由が無かった。逆に、肉眼で見ることに集中しきれる打ち上げは今までなかったので、良い機会だとも思った。
こうして準備は整った。
出発日前日の午後。
JAXAのサイトで打ち上げ延期の知らせが発表された。
天候悪化の予報が出ているため、一日延期となった。
延期があっても大丈夫なように予備の休みを取っていたので今回は問題ないが、また延期したら帰らなければならない。
打ち上げに延期は付き物だが、行く前から不穏である。
出発日。打ち上げ二日前。
早朝から駅に向かい、待ち合わせをしている彼女と落ち合う。久々に会った彼女はこちらを見ると少し驚いた顔をして、挨拶もなく「やつれた?」と尋ねてきた。
真夏にあれだけ汗をかいてジョギングをしていたのだ。目に見える成果が出ていても当然だろう。「やつれた」というのが気になったが、ダイエットには成功したということだ。まあ、五キロまでは減らせていないのだが、それはそっと隠しておいた。
羽田空港から飛行機に乗り、鹿児島空港に降り立つ。機内でオフにしていた電源を入れると、スマホが速報を知らせてきた。
『桜島、噴火警戒レベル4に』
その文字に一瞬ぎょっとなる。
「どした?」
彼女が気づいて、画面を覗き込んだ。
「うわ。噴火ってこれ、大丈夫なの?」
「どうだろう……。なんかやばそうだけど……」
桜島といえば、鹿児島市の間近で年中煙を上げて灰を撒き散らしている大きな火山だから、別に噴火自体は珍しくない。だが「避難準備」とあるから、大噴火が起こるのかもしれない。
考えていても仕方がない。ここまで来てしまったのだから帰るわけにもいかないし、何事も起こらぬよう祈りながら港へと向かった。
港の待合所のテレビも繰り返しこのニュースを流しており、さすがに不安になってきた。打ち上げ延期と言い、噴火と言い、この旅は果たして無事に終えることが出来るのだろうか。嫌な予感ばかりが浮かんでしまう。
ともあれフェリーは予定通り出港した。ちなみにメールで話したプールはあの通り不評だったため、大人しく待合所で漫画を読んで時間を潰すことになった。
夕日の差す中、船は港をゆっくりと離れていく。速度は普段使っている高速船とは比べものにならないくらい遅い。そもそも、何故今回はフェリーなのか。それは、
「高速船なんて良い所ないじゃん。外出られないしあっという間に着いちゃうし高いし。フェリーの方が絶対いい」
という彼女の主張によるものである。一人旅を続けていたらまず乗ることはなかったであろう。
自分たちはひとまず船室に行くことにした。雑魚寝部屋のため毛布を敷いて場所取りを済ませると、彼女は「探険してくる!」と張り切って、また部屋を飛び出していった。探検するほど広い船ではないが、初日からあんな調子でバテたりしないだろうか。また不安になる。
重いリュックを下ろし、床に座って一息つく。
船室は乗客で賑わっていた。もっと人が少ないと思っていたが、夏だからサーファーが多いのだろうか。もしかしたらロケット見学者の同志もいるのかもしれない。
廊下の方からガヤガヤと声が聞こえ、ドアが開いて数人の青年たちが入ってきた。いかにもスポーツマンな引き締まった体つきの団体はこちらへ向かってくる。
「すみません、隣いいですか」
「あ、はい。どうぞ」
彼らはどかどかと荷物を床に置き、半円を描くように座り込んでさっそく話し込み始めた。楽しそうに波の話をしている。サーファーなのだろう。
共通の趣味を仲間と楽しむなんて、自分にはほとんど縁がなかった。今は彼女と来ているが、彼女も別にロケットが好きというわけではない。誰かと好きなもので共感し、話に華を咲かせるなんていう事には今でも憧れる。隣にいる彼らが少し眩しく見えた。
そんなことを思いながら一人でぼんやりしていると、彼らの会話から「ロケット」の単語が耳に入ってきた。
「打ち上げ見られるのかねえ」
「また延期したら無理だな。なんか延期日の天気も悪いんだよなあ。ロケット今日飛ばせばいいのに」
どうやら彼らも見学者らしい。何故か少し嬉しくなる。思い切って声を掛けてみようか。もしかすると何か情報が聞けるかもしれない。
しかしいざ話し掛けようと思うと、そのタイミングが難しいものだ。きっかけでもあればいいのだが。せめてこちらを向いてくれれば。いい年して、自分は好きな子に声を掛けられないで、もじもじしている女子か。
そうやって声掛けの機会を伺っていた時だった。
「あのう、すみません。こちらに小さなデジカメ、落ちていませんでしたか」
見上げると、二人の男が目の前に立っていた。二十歳くらいの若者で、一人は色白で眼鏡、もう一人はガッチリとした体型で大きい。なんともちぐはぐな二人組だ。
「銀色のデジタルカメラです。このくらいの大きさの」
首から一眼レフカメラをかけた眼鏡の青年が、こちらを見下ろしながら手で四角を作っている。
「……いや、見ていませんねえ」
「そう、ですか。失礼しました」
彼らは隣のサーファー団体にも同じことを聞いていたが、その答えも同じだった。
「本当にこの辺で落としたのかよ」
体格の良い方の青年が愚痴る。
あっちかも、と言って彼らは隣の部屋へ消えて行った。
カメラ二台持ってきたのか。たぶんポケットに小さな物を入れてきて、いつのまにか落としたのだろう。無くすといえば、彼女もかなり物を無くしやすい人間である。
そういえば、探険に出掛けたきり帰ってこないがどうしたのだろう。サーファー団体は話が盛り上がって声を掛ける隙も無さそうなので、自分は彼女を探しに部屋を出た。
彼女が部屋にも廊下にもいないので、甲板に出た時。
「なんかいる!」
傍にいた客が突然声を上げた。
その客の視線の先を見ると、なにか海の中に黒い塊が集まっていた。魚にしては大きい。それは波に見え隠れしながら泳ぎ、そして小さく跳ねた。
イルカの群れだ!
数は七、八頭はいるだろうか。真夏の鹿児島の海だから暖かいのは分かるのだが、こんなに近くで見られるなんて驚きだ。そういえば船がクジラにぶつかったという噂も耳にしたことがある。この辺には野生の鯨類がよく出るのだろうか。
「すごい! イルカだ!」
聞き慣れた声がしたと思うと、後ろから彼女が走ってきた。手すりにしがみつくと、そこから身を乗り出すようにして船の前を斜めに横切るイルカを見ている。
傍に行き声を掛ける。
「落ちるから危ないって。ていうか、どこに行ってたの」
「うち、はじめて見た!」
子供のようにはしゃぎながら双眼鏡を覗き込む彼女。話など全く聞いちゃいない。
水族館に当人を連れて行ったこともあるのだが、あの時もイルカやシャチのショーを見て、目を輝かせて歓声を上げていた。良くも悪くも子供っぽい。彼女が行きたがる場所は、小学生のそれとほぼ変わらなかったりする。
夕焼けの海をこきざみにジャンプしながら船の後ろへと泳いでいくイルカ達。彼らの姿を眺めながらひそかに彼女に感謝する。自分一人では見ることのなかった景色。それが見られたのはまさにフェリーを選んだ彼女のおかげだったから。
船首から見て右側には真っ赤な太陽が水平線に沈もうとしていた。空にはちらほら星が光り始めている。
甲板にはゴザに座って弁当を食べている家族連れがいた。彼女はといえば、あれからずっと飽きもせずに海を眺めている。部屋に戻る気配はしばらく無さそうだ。
「自分たちもゴザ敷いて座ろっか」
そう提案すると、彼女はこちらも向かずに「うん」
とだけ答えた。
廊下に置かれてあるゴザを持ってきて、自分達は甲板の片隅に座った。
日が沈むと、辺りは甲板の小さなライトが所々にあるだけで、ほとんど闇となる。吹き付けてくる強い潮風と、船が波を切って進む音、そしてマストのアンテナが回る音がやけに大きく聞こえた。
「ねえ、横になってみなよ」
脇で仰向けになりながら彼女が言った。言われたとおりにする。
仰向けになると、自然と空を見ることになる。
満天の星空が、そこにはあった。
写真でしか見たことのないような、大きな天の川が空の端から伸び、反対側の水平線まで渡っていた。星の数が多すぎて、どれが星座なのかも分からない。濃度の濃い黒空の中で無数のそれらは瞬き、じっと見つめていると、自分も星となってぽっかりと宇宙に浮いている、そんな不思議な気分になった。
「……すごい」
「ねえ、なんだか、銀河の海を進んでいるみたいでしょ」
確かにそんな気さえしてくる。
視界の端には、船の一番高いところで回っているアンテナが映っており、きぃ、きぃと寂しそうな音を立てていた。これが銀河を進む船なら、あのアンテナは一体どこの星と交信しているのだろう。
そうやってしばらく二人で寝転がり、星空を眺めて感動していた。途中、他の乗客もやって来て、同じようにゴザに寝転がって星を眺めていた。
写真を撮る人もいた。最初は暗くて気付かなかったのだが、それは部屋で声を掛けてきた二人組だった。お互い気付くと、向こうから挨拶をしてきた。
「先程はどうも。いやあ、星が本当に綺麗ですね」「ええ。まさに満天ですね。そういえば、探しものは見つかりました?」
「ああ、あれ、自分が持っていたバックに入っていたみたいで……見つかりました」
青年はばつの悪そうに苦笑いした。
ホントお騒がせしました、と隣の体格の良い青年も愛嬌良く笑いながら軽く頭を下げる。
見つかったのなら良い事だ。ところでさっきから熱烈な視線を感じている。見ると彼女が説明を求めるような顔をしていたので、簡単に紹介した。
「お二人は観光ですか?」
紹介が終わった後、とりあえず彼らに質問してみた。
「観光と言うか……ロケットの打ち上げを見たいと思って」
「こいつがどうしても本物を撮りたいって言うから、見学に来たんです」
大柄の青年が付け足す。
「だって、でかいロケット撮りたいじゃん」
なんと、同志だったか。
「自分たちも見学者なんです。そちらは何度か打ち上げを見ているんですか?」
大柄の彼の方を見る。
「いやあ、俺も小さい頃に見たっきりで……」
頭を掻きながらそう答えた。
「俺たち、普段はモデルロケットを作っているんですよ。まあ、こいつはどっちかって言うと写真オタクで。それで本物を撮りたいって言うので、時間もあるし行ってみようかなと」
「モデルロケットですか。写真なら自分も撮るんですが。今回は生で見る方に専念したいから撮らないんですけど」
「……なるほど、そういうのも良いですね」
眼鏡の青年が感心したように呟く。
「ところで、見学場はどこを予定しているんですか?」
彼らの表情が少し曇った。しばらくの間があって、
「恵美之江ですかね……」
なんとも自信のない答えが返って来た。
「うちらはどこだっけ」
それまで黙っていた彼女が呟いた。
「自分たちも恵美之江公園だよ」
そう答えるとカメラマンの青年が食いついた。「ああ、やっぱりあそこがいいですよね! 一番打ち上げ場に近いですし」
その時、船のライトが着き、周りが明るくなった。船の進行先を見ると闇の中で港の灯台の光が見える。どうやら種子島にもうすぐ着くらしい。
「あぁ、やっと到着か」
周りの人達の動きが慌ただしくなる。青年達もそわそわし、落ち着かなくなってきた。
「お互い良いロケット見学にしましょうね」
そう言い残すと、彼らはそこで話を切り上げ、足早に船室に戻っていった。
港の光が近づいてくる。また来たんだ、という気持ちが強くなってくる。ロケットの島、種子島。今や自分にとっては第二の故郷にも近くなっているのだ。
船で種子島についた次の日の朝、事前に予約していた港の近くの宿で一夜を明かした自分達は、朝の準備をしていた。打ち上げ延期で一日時間が空いたので、島の南にある宇宙センターまで行くことにしていたのだ。
予約していたレンタカーを借りるための書類を、宿のすぐ近くにあるレンタカー屋のおばさんからもらってきた自分は、まだ部屋の中でなにやら荷物をごそごそと漁っている彼女の背に声を掛ける。
「そろそろ準備いい?」
こっちを向いた彼女は口をあんぐり開けて目を見開いていた。そして明るく宣言する。
「車の免許証忘れちゃった」
一つ重要なことを言う。車を運転できるのは彼女であって自分ではない。
「さあ、どうするか考えるんだ!」
完全に頭真っ白になって無責任なことを言い出すお馬鹿さんを前に、自分は天井を向いて盛大に溜息をついた。とりあえずレンタカー屋のおばさんに事情を説明しにいく。
「ごめんね。車なくて困るのは分かるけど、無免許運転させるわけにはいかないから」
と実に済まなそうに返され、結果的にバスに乗ることになった。
種子島のバスは本数が少なく夜は全く出ないので使いにくいのだが、やむを得ない。種子島の西之表港から宇宙センターまではだいたい一時間半。バスの窓から海岸線を眺めていた彼女がうつらうつら船をこぎだすのを見守りながら、昔のことを思い出していた。
彼女は機関車が走る町で育った。小さな頃から遠くで汽笛が鳴るのを耳にし、使い捨てカメラでSLを撮りまくっていた。今でもそのSLは走っていて、時々二人で汽車の旅を楽しんでいる。
自分は最初、SLの旅はそこまで興味がなかった。カメラが趣味な所もあったから乗るよりも撮る方に興味はあったかもしれない。でも実際乗ってみて変わった。
ごとごと揺れる列車の車窓から、こちらに笑顔で手を振ってくれる人達を見ていると、穏やかな気持ちになる。SLというものがどれだけ愛されているのかを感じると自分も嬉しくなる。そんなわけで今や自分もどっぷりだ。
ロケットはどうだろう。彼女は実際にロケットの打ち上げを見て変わるだろうか。自分が感じるような、どうしようもないくらいに沸騰する気持ちを持ってくれるだろうか?
小雨が降る中、宇宙センターの大崎第一事務所に入る。
倉庫のような建物の中には、濃いオレンジ色のロケットが横たわっていた。これは過去に飛べなかったロケットだ。一つ前のロケットが失敗したことで打ち上げが中止されてしまった機体。
精密な部品の数々、そしてその巨大さ。手の届きそうな距離で初めて見た時にはそれに嬉しくなって写真を撮りまくってしまったが、今では違う感想を持つ。
ここはまるでロケットの体を置くためだけのお墓みたいな所だ。今、ここにロケットの魂はない。何年間も動くことなく、これからも燃料を入れられることのない機械というのは、生きている感じがしない。
そんなことを話したら彼女は、
「公園に置かれているSLと似ているかもね」
と答えた。ロケットは悪く言えば使い捨てで、消耗品とも言える。昭和の時代に何十年も使われ愛された機関車とは生き方も境遇もまるで違うかもしれない。
それでも燃料を燃やし煙をあげ熱を発し空を地上を駆け抜ける。その姿を見ていると根っこの部分では繋がっていると思うのだ。短命か長命かの違いで。そう、自分にとってロケットもSLも生きているはずの機械なのだ。
ロケットの打ち上げ見学場の一つである長谷展望公園の近くに、宿のない人々に開放されている公民館があると聞いた。
宇宙センターを出た自分達はそこへ向かった。本当は恵美之江公園の近くで車中泊をする予定だったのだが、レンタカーがないので計画変更だ。
見学場も恵美之江公園から長谷公園に変更しなければならなかった。打ち上げ場からは離れるため見えるロケットは小さくなるが、仕方ない。
その古ぼけた公民館に着いたが、誰もいなかったので荷物だけを置いて長谷公園に下見に行った。
長谷公園はだだっぴろい緑の芝生が広がった公園だ。申し訳程度に遊具が置いてあるが、ここはどちらかというと走り回ったり、フリスビーやバトミントンをしたりするのに良いような広さが売りだと思う。もちろん、打ち上げをたくさんの人が見るのにもぴったりだが。
明日の打ち上げを見る場所取りのために、ここから先は立ち入り禁止だということを示す植え込みの前にはシートが並んで敷かれてあった。ざっと五、六枚だろうか。
四角いVAB(今回打ちあがるロケットが入ってる建物)が遠くにあるのを見て彼女がぽつんと言った。
「あんなに小さいんだね」
「長谷から見たら小さいね。恵美之江だったらもっと大きく見えるけど」
ロケットの打ち上げを制限区域三キロメートルぎりぎりで一番近くから見られるのは、恵美之江の方だ。ただ、ここからそこへ行くのは、今の自分達ではかなり難しい。歩いて往復するには厳しいし、タクシーで往復するにもお金がかかってしまう。バスもないし。
ひとまず公民館に戻ると、中から二人の男性の声が聞こえてきた。なにやら揉めているような雰囲気である。玄関に入り中を伺うと、誰もいなかったはずの部屋で話している人達がいた。
「なんとか歩いて行ける距離じゃない?」
「だからお前、その足じゃ無理だろうって」
というか見覚えのある顔である。顔を見合わせて思わずお互いに声を出す。
「あれ?」
「あれま。また会いましたね」
眼鏡カメラマンに大柄な体格のモデルロケット屋。はいびすかすで出会った青年二人だった。再会を嬉しく思う一方、なんで彼らがここにいるのか不思議に思う。
「どうしてここに? 長谷じゃなくて恵美之江で見るんでしたよね?」
そう彼らに尋ねると、
「うーん、恵美之江に行きたいことは行きたいんですけど、車借りれなくて。歩きで行こうにも、こっちの相棒が足怪我してて……」
ほぼ自分達と同じ事情だ。結局、レンタカーのような交通の足がない人達は、見学場は長谷公園か宇宙ヶ丘公園になりやすい。まあ頼めば、車で乗せて行ってくれる親切な人もいるらしいが、あまり他人に頼るのもなんである。
その時、彼女が思いついたように言った。
「四人で一緒にタクシーに乗ったらどうだろう?」
脳内に稲妻が走った。思わず手をポンと打つ。名案だ。半額にできる。
「あ、なるほど……」
青年二人も突然の発想にびっくりしたようだ。そのままの勢いで、皆で明日の昼頃には移動して夜の打ち上げを見て、またタクシーで帰るという予定を組んだ。
その後、お互いのことやロケットについて語る会が始まった。
青年二人は同じ大学で一年離れた先輩と後輩らしい。意外なことに色白な方が先輩で、しっかりした体格な方が後輩なのだそうだ。人は見た目によらないのだなあ、と思う。
「ところでお二人はどのようなご関係ですか?」
自分と彼女に質問が飛んできてちょっと困る。なんて答えるべきかと考えて結局正直に答えた。
「一応……、彼氏彼女の関係です」
「おおー。仲良くていいですねえ」
彼女が自分の後頭部を叩く。文句があるらしい。結構痛いから叩くのなら別の所にしてほしい。
「ふーんだ」
彼女はそう言い残してさっさと離れて寝てしまった。まあロケットに関するコアでディープな話になることは目に見えていたから当然かもしれない。
その日の夜は眠れなかった。
打ち上げを間近に控え、テンションが上がり過ぎたのもあるが、部屋に入り込んだ虫が凄いのである。
ブーンブーンと戦闘機のようにカナブンが天井を飛び回るし、彼女はアブに刺されるし、もし蚊がいたら最悪だっただろう。そんな感じで熟睡などできない夜を過ごし、スマホでJAXAの情報をチェックしながら、時間が経つのをじっと待っていた。
そんな時、ずずんと建物が揺れた。大きく地面が波打つ。
「え? なに今の」
寝ぼけて目をごしごしとこする彼女。
青年達も起き上がって、辺りを見回している。
「地震。珍しいね、この辺りで地震なんて」
そう言ってから気付いた。
「……桜島?」
だとしたら大変だ。あんなどでかい山が噴火したら……。
携帯で急いで調べるが、震源はどうやら種子島の南の海。桜島の辺りではない。でもこの位置はロケットがある宇宙センターのすぐ傍だ。ロケットが大丈夫かどうか心配になったが、まもなく異常はないということが分かり一安心。気が抜けたのかその後すぐに眠気が一気に押し寄せてきた。
早朝、長谷展望公園に来た自分と彼女は、ロケットがVABから出てくるのを今か今かと待っていた。長谷公園からロケットの機体移動を見るのは多少難しいものがあり、他に見に来ている人はいなかったが、彼女には例の双眼鏡がある。
「あれ、動いてるのあれかな?」
疑問符をつけたような声が彼女から上がった。最初はよく分からなかったが、動いているのが見えるらしい。自分の肉眼では移動の様子は全然見えなかったが、いつの間にかロケットが発射台の所まで来ていた。
「とりあえずロケットのロの字が見れたね」
彼女が嬉しそうに言う。それから一転、静かな声で続けた。
「ロケットの打ち上げが見れたらお別れだね」
突然すぎて言葉が出なかった。しばらく経ってようやく声を絞り出す。
「……なんで?」
「最初からそのつもりだった。一緒にロケットを見るまでは着いて行こう、そこから先はお互い別の道を進もうって。一昨年、星空の下で約束した時から」
彼女はこちらの方を見ずに答える。
「叶わなくても良かったのに叶っちゃうね」
あの言葉はそんなことを考えながら言っていたのか。彼女は別れるつもりで自分と一緒にロケットを見に来たのか?
「なんで別れる必要があるの? 自分達仲良くやってきたじゃないか」
「知ってたもの。寂しいからうちと一緒にいただけだってこと。傍にいてくれれば誰でもいいんでしょう? 別にうちじゃなくてもいいんでしょう?」
双眼鏡を両手に握りしめ、うつむく彼女の瞳から水滴がぽたりと緑の芝生に落ちる。彼女は続ける。
「一緒に色んな所へ行けて楽しかった。でも、それはきっとあなたが孤独だから呼んでくれるだけなんだよ。種子島に一緒に来てくれれば、きっと誰とでもいいんだよ。うちとじゃなくても」
そしていきなりこちらを見て声を張り上げた。
「そんなに寂しいのなら、もっと友人見つけろ! 種子島がいいのなら種子島の人と結婚しろ! うちのことなんか嫌いになっちゃえ!」
その後バーカバーカ、あーほあーほ! とまるっきり子供のような罵声をぶつけてくる。自分は頭をフル回転させて考えていた。本当にそうなのだろうか。
確かに自分は寂しかった。過去いたかもしれない友人とは連絡が途絶え、職場でも形式的な人間関係しか持っていない。それでも友人を作ろうという積極さは持てなくて、会社と自宅を行き来するだけの生活を続けていた。
そんな自分が唯一、一緒に旅をしてくれる彼女のことを好きになったのは当然かもしれない。彼女の言う通り、他にそういう人がいたら、その人のことを好きになっていたかもしれない。
でも、自分は彼女となら旅をしたい、と思っているのも事実なのだ。誰とでもいいわけじゃない。ロケットの打ち上げを見せたい相手も彼女なのだ。自分が一番大事な人にあの光景を見せたいのだ。
「君に見せたかったから声を掛けたんだ。絶対感動してくれると思って」
「感動なんかしないよ。ばーか!」
ちょっとショックを受けるが、とっさに賭けをすることを思いつく。勝てるはずの賭け。今の彼女に何を言っても無駄だろう。それなら単純に自分と旅をしていきたいかどうか、彼女の感情、心に直接聞くしかない。
「じゃあ感動したら、一緒にまた来よう。感動しなかったら別れよう」
「いいよ! はーげ!」
そう言い放つと彼女はのしのしと駐車場の方へ歩いて行った。自分はそれを見送った後、ロケットの方を見て泣きたくなった。
「なんでこうなっちゃうのかなあ」
打ち上げ予定日、当日の昼過ぎ。
タクシーに乗って恵美之江公園の近くに来たのだが、交通規制がかかっていたので少し歩くことになった。両側が高い草木で覆われた道を歩いていく。舗装されていない石だらけの道で、多少歩きにくい。
「ワクワクするぞ!」
同乗して来た他の二人が、公園に近付くにつれ足取りも軽くテンション上げ上げなのに対して、自分達二人は黙ってその後ろをゆっくりと付いて行く。
彼女の方はと言えばあれ以来、ずっとむすーっとしていた。口をきいてくれない。目も合わさず顔をぷいと背ける。でも公園の入り口から、ロケットの姿が見えた時に表情が変わった。
「近い……」
明らかに長谷公園よりも大きく見える。対岸にそびえ立つロケットの存在感がまるで違った。
彼女の顔を見て、思わず安堵のため息をつく。この場所に来られて良かった。最初で最後になるかもしれない打ち上げ見学なら、やっぱり一番近い場所で見せたい。
公園の奥にはすでに沢山の人々がロケットを見られる位置にスタンバイしていた。自分は背の低い子供連れの後ろに彼女と一緒に座る。肩車とかされない限りはここが一番良さそうだ。
青年二人はカメラの三脚を立てる場所を探してどこか別の場所へと移動していった。
自分達は出店で売っていた炊き込みご飯を食べて一服する。彼女はだし汁に漬け込んだ卵を食べていた。にんまりしている所からして、美味しいらしい。
彼女をその場所に残して辺りを歩き回ってみる。
この場所に来ている年代層はさまざまな感じだ。おじいさん三人組がすでにこの時間からお酒を一杯やっていたり、若者たちがカードゲームに興じていたり。
見覚えのある顔もたまにいる。ロケット見学に何回も来ている人はいたりするから、なんとなく頭を下げてあいまいな挨拶のようなものをしておく。
公園の端に来ると、下はすぐ海岸になっていて波打つ海面が良く見えた。まだ公園がない時代には、この近くの恵美之湯という場所からロケットを見たことがあって、その時は海で泳いで遊んでいた人もいた。警備の人に捕まっていたけれど。ロケットに近付いても良い距離ぎりぎりの場所なのだからそういう事もある。
彼女の所に戻ると、イヤホンを耳にして音楽を聴きながらロケットの方を眺めていた。ここからはひたすら待ちの時間だ。自分もロケットをぼんやり眺めながら時が過ぎるのを待つ。
「まーだ? ねえまーだ?」
と前にいる子供がぐずりだしていた。
自分にとってロケットが打ち上がるまでの時間というのはどんなものだろう。
初めてロケットを見たのは4年前になる。あの時は別の見学場である宇宙ヶ丘公園で、H2Bロケット二号機が昼に打ち上がるのを待っていた。
まだ見ぬ光景を前にドキドキする気持ちが収まらなかったのを覚えている。何時間も前から待っていたのに、それがあっという間に過ぎてしまったように感じたほどだった。
あの時の気持ちを忘れていないだろうか。今の自分はロケットよりも彼女のことの方が気になっているかもしれない。まあ、直前にロケット見たら別れる、みたいなこと言われたら、しょうがないような気もするが。
でも、ロケット見学に慣れてきた事もまた事実で、以前の様に、待つ間もロケットをずっと凝視していると言うようなことは無くなった。そのうち打ち上げを見る事にも慣れてしまって、何も思わなくなったりしてしまうのだろうか。そうしたら、自分はどうなってしまうのだろう。分からないが怖い。ロケットの打ち上げを見る事で自分の心が保たれている部分も多々あるのだ。あの光に救われている、と言っても過言ではない。
彼女がいなくなるのと、ロケットが無くなってしまうのとどっちが恐ろしいか、聞かれたら答えられないと思う。そんな質問をしてくる人がいたら、その人こそ、本当の悪魔なんじゃないだろうか。
夜になり、刻々と打ち上げの時刻が近付いてきていた。予定では二十時四十五分四十九秒にあのロケットは打ち上がる。左腕の時計はあと一時間ほどでその時間を告げる。しかしもう一つ自分には気になるものがあって、先程から時間を気にしながら夜空を見上げていた。
その時、今まで黙っていた彼女が自分と同じ方向を見ながら話し掛けてきた。
「綺麗な夜空だね」
「うん、島の夜空は違うね。」
ここ種子島は、自分達の住む地域よりもずっと光害が少ないから夜空は本当に美しい。そんな星空を眺めているうちに彼女の機嫌はいつの間にか直っていたようだ。彼女は、星をできるだけ良い条件で見るためにわざわざ極寒の雪山にテントを張るくらい星が好きだから。
ふと思い出して、時計に目をやる。あと2分くらいだろうか。
「うち思うんだ」
唐突に彼女が話し始めた。
「昼は明る過ぎて星は見えない。星って宇宙でしょ。まるで太陽が世界の本当の姿を人間に隠しているみたいだって」
なんて哲学的な事を言うのだろう。いつもは子供っぽい彼女だが、頭の中は一体どうなっているのだろうか。
「きっと今見ているのが本当で、宇宙はこれだけ近いんだよ」
彼女の言葉には微かな熱がこもっていた。
宇宙にあこがれる気持ち。自分はそんな風に彼女が語りかけてくれることを嬉しく感じて、ここに来たのは間違いじゃなかったと思った。まあ、彼女はロケットよりは星空なのだが。
少し間をもたせてから自分は答えた。
「そうだね。ISSだって近いんじゃないかな」
「ISSって何?」
「あれ」
夜空の端から飛んでくるその光を自分は指差した。一見星の様なそれは、かなりのスピードで他の星々の間を横切っていく。
「え。えー! なにあれ? 人工衛星?」
彼女がうわずった声を上げる。本気で驚いてくれたらしい。自分はにやにやが止まらないまま説明してあげた。
「だからISSだって。国際宇宙ステーション」
あらかじめネットで見える方角と時刻を調べておいただけの話だ。今回種子島で見られたのは幸運でもあったけど。あっという間にISSの光が流れていったのを見送ってから彼女はこっちにこぶしを振り上げた。
「先に教えろよ!」
「ごめんごめん」
口ではそう言うが、まったく自分は反省してない。
改めてロケットを二人で眺める。
夜の闇の中、それはライトアップされてなんだか幻想的にそびえ立っていた。もうすぐ宇宙へと打ち上がるとは思えないほどの、ずっとあのままそこに立っているのではと思うほどの重い存在感。あのロケットが星のようにしか見えない宇宙ステーションの所まで飛んでいく。それはあまり実感がわかない。その前にこんな巨大なものが本当に空を飛ぶのか。何回も見ている自分ですら、信じられない挑戦に思える。
今回打ち上げるのは「こうのとり」(HTV)。食料や水、実験装置等を積んだ補給船だ。惑星の調査に使われる探査機に比べると地味な役割にも思えるかもしれないが、こうのとりは補給船なだけに重量がある。有名な探査機「はやぶさ」が約五百キログラムに対して荷物を積み込んだ状態のこうのとりはおよそ十トン、二十倍はある。そんなことを考えているうちに秒読みの放送が始まっていた。
『七十五、七十四、七十三』
『冷却開始』
パワーもそれだけ必要だ。国内最大のロケットH2Bを使わなければ宇宙ステーションまで届かない。重量上げとかウェイトリフティングというのがあるが、ロケット全体の重さで例えるなら、あれの約五百トンバージョンだ。それを持ち上げた上で、四百キロメートル上空へ放り投げる。ふつうできないと思うだろう。
『一分前です』
隣の彼女の様子をちらっと見る。すぐ気付かれてしまった。彼女は怒ったように言う。
「ロケットの方見てなよ」
「……うん」
今はロケットに集中していた方が良い。彼女に言いたいことは色々あった。ここまで来てくれて感謝していること、これからも一緒に色んなものを見て共に歩んで行きたいこと。でもそういう物を通り越して今は全てをロケットに託そうという気になっていた。これが君と一緒に見たかったものだよ、というメッセージをロケットは伝えてくれると信じて。
開始とか始動とかフライトモードとか専門用語や英語が放送で飛び交う中、自分は手を合わせた。
祈る。何も出来ないけど何か出来るとしたら、今はこれしかない。
『オールシステムレディ』
『八、七、六』
それぞれの期待や願いをこめて周りの人々皆が声をそろえる。
『三、二、一!』
――光が生まれた。
溢れ出すその光に押し出されるようにロケットがぐいと持ち上がる。
周りで歓声が上がり彼女が声を張り上げる。
「がんばれ!」
それに応えるかのように空気を切り裂いて轟音が届く。ロケットの雄叫びだ。おびえて泣き出す子供の声すらかき消し、ビリビリと肌をつつき鼓膜を震わせる。圧倒されるのは単に大きな音がして眩しい光が発せられるからじゃない。空の向こうに行くというロケットの強烈な意志が自分達の心を揺さぶっている。膨大な量の煙を吹き出しながら、ロケットは自らの重さを感じさせない速さでどんどん空を駆け上っていく。無限の彼方に思える宇宙へ、空気の層を突き抜けて進んでいく。
「いけー!」
胸の中に抑えきれず声が飛び出す。こちらの声援は届かないが応援したい気持ちは止められない。自分達の想いは今ロケットと一緒に空を飛んでいる!
あの時の一体感、胸の高鳴り、情景は脳に焼きついて離れない。やがて星のように光の一点となったロケットの火は、ある一時を境に見えなくなった。
涙を流していたのは自分だけだったけど。
こうして自分と彼女の旅は終わりを迎えた。
帰りの飛行機の中で自分はずっと気になっていたことを彼女に聞いてみた。
「ところでロケットを見て感動した? しなかった?」
彼女は難しそうに考えてから答えた。
「あなたみたいな変人がハマっている理由は分かったね」
相変わらずいじわるだ。
「変人……。そりゃ変人かもしれないけど」
と落ち込む自分の目の前に、彼女の顔がにゅっと突き出される。それこそキスできるくらいの距離に。
驚く自分の表情を見て彼女は笑った。
「また行きたいな。ロケット!」
自分達の旅がいつまで続くかは分からない。それこそ唐突に終わるかもしれない。でも彼女の心の空に昇ったロケット雲は消えること無く、いつまでも残り続けるだろうと自分は信じたい。
想いはきっと届く。宇宙にだって人の心にだって。